こんにちは。なみだれです。
前回、水上機母艦・千歳(アオシマ)の製作記②(水上機の作成②)からの続きです。
ようやく船本体の製作に取りかかります。
水上機母艦千歳とは
まずは、千歳のご紹介から。
WIKIより抜粋しました。
千歳型水上機母艦
船体は平甲板型で、乾舷が高く直線的な船体をしている。また、復原性確保のためバルジを装着した。
2隻とも呉海軍工廠の建造艦で、両者に外見上の違いはほとんど無い。わずかに蒸気捨管の配置や舷窓配置に違いが見られるだけという。ただ、構造上、「千代田」は第四艦隊事件の教訓により上甲板が補強され、上甲板には厚鋼板が用いられた。
中略
対空兵装は以下の通り。主砲として12.7cm連装高角砲2基を艦首に背負式に搭載。対空機銃は計画通り25mm連装機銃6基を搭載。艦橋の前方に1基、左右に1基ずつ、残り3基は帰着甲板(機銃甲板)の後方に装備した。
搭載機
実際の運用では1938年10月時に「千歳」は8機を搭載、中国進出時の「千代田」は9機を搭載といわれる。機種としては九五式水上偵察機以外では、千歳の公試時の写真では九四式一号水上偵察機を搭載、1940年頃の千代田は九四式二号水上偵察機の搭載も確認される。また、ミッドウェー海戦の頃の千歳の写真では零式観測機と零式水上偵察機を搭載している。
歴史
当初計画では第1状態は水上機母艦として水上機24機を搭載。給油艦として重油2,750トンを他艦に補給可能。速力は29ノットであった。第2状態は甲標的12隻を搭載。水上機は12機、補給用重油は1,000トンとした状態だった。両艦とも第1状態で竣工。昭和13年、「千歳」「千代田」の2艦は竣工。水上機母艦として中国方面へ支援に出勤した。
1940年-1941年にかけ、千代田は第2状態である甲標的母艦に改装された。「千歳」も同様の改装を施す予定だったが、結局改装されなかった。これは昭和17年の写真からも、その行動からも明らかである。
1941年12月、太平洋戦争が開始。開戦時の段階では航空母艦改装は考慮されておらず、昭和14年時には新開発の「十二試二座水上偵察機」を1隻当たり18機を搭載する計画があった。他の水上機母艦、重巡洋艦搭載の機と合わせて計84機の水上爆撃機隊を編成し、水上機母艦のままで攻撃空母として使用される予定だったのではないかとする推定もある。開戦後は千歳は引き続き水上機母艦として運用、千代田は甲標的母艦としてその運搬などに当たった。
1942年6月、2隻ともミッドウェー攻略作戦に参加する予定であったが、ミッドウェー海戦の敗北を受けて中止になった。ミッドウェー海戦で日本は正規空母4隻を失ったため、「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」「シャルンホルスト号」らとともに、千歳型水上機母艦2隻も空母改装予定艦となり、1942年末から工事に入った。1943年末には完成した。
引用ここまで。
千歳の戦歴としては、フィリピンの攻略や西部ニューギニアの攻略が挙げられます。
航空母艦に改装されてからは、マリアナ海戦に参加し、1944年のレイテ沖海戦で沈没しました。
今回作成するのは、水上機母艦の千歳なのでミッドウェイ海戦以前の状態ですね。今まで作成にあたって、時代考証とかを気にしたことはなかったのですが、艦載水上機の選択は、気にしてみようと思います。活躍したのは、ミッドウェイ以前ですのでこの時期をモデルにします。この時期ですとWIKIの文章からは、九四式水偵と九五式水偵が搭載されていたと思います。
船体、小物の筆塗り
最初に筆塗りで艦底色を塗りました。洋上モデルなので艦底のパーツの側面のみ、水性ホビーカラー(H-17、ココアブラウン(艦底色))に塗りました。
次にリノリウムに相当するパーツ(A1、A13、A14、G3、D1)は一番最初にMrカラースプレー(43、ウッドブラウン)で塗りました。写真を撮り忘れましたが、エッチングパーツ5も同様に塗りました。構造物や壁の部分は、水性ホビーカラー(H-43、軍艦色(2))でちびちび筆塗りしました。
透明パーツは、探照灯のガラス部分に、マスキングゾルを塗っておきました。
船体の舷窓の穴あけ
船体にたくさんある舷窓に0.3mmのピンバイスで穴を開けました。こうすると引き締まった感じになります。
パーツに穴あけ
次にA3,A4に穴を開けます。舷窓は0.4mm、C4とG18を取り付けるための穴は0.7mmのピンバイスを使いました。
C4とG18を取り付けました。
忘れないようにF8にも0.6mmのピンバイスで4箇所、穴を開けました。
次は、水上機母艦・千歳(アオシマ)の製作記④(艦橋の作成) に続きます。
では、今回はここまで。