こんにちはなみだれです。
最初の製作記は秋津洲です。
1、秋津洲とは
軍艦秋津洲(あきつしま、2代目)は、日本海軍が太平洋戦争で運用した水上機母艦。類別上は水上機母艦だが、飛行艇の整備補給や救難をおこなう飛行艇母艦である。二式飛行艇を艦尾のクレーンでつりあげ、後甲板に搭載して整備することが可能だった。ただし、飛行艇を登載したままでの航行は想定していない。
秋津洲は神戸川崎重工業で1940年(昭和15年)10月末から建造がはじまり、1942年(昭和17年)4月29日に竣工した。
第十一航空艦隊の第二十五航空戦隊に編入され、5月中旬にサイパン、ニューブリテン島ラバウルに進出し、飛行艇部隊(横浜海軍航空隊)の支援をおこなった。その後、ショートランド泊地を拠点にガダルカナル島の戦いにともなうソロモン諸島の作戦に従事した。
1943年(昭和18年)2月以降、内南洋諸島で行動。6月末、幌筵島に進出してキスカ島撤退作戦の支援。その後は中部太平洋諸島で行動。1944年(昭和19年)2月17日、トラック島空襲に遭遇して損傷。メレヨン島とパラオ諸島を経由して、横須賀に帰投。日本海軍はパラオ大空襲で工作艦明石を喪失。そこで秋津洲を工作艦に改造した。捷号作戦にそなえ、秋津洲は第一遊撃部隊(指揮官栗田健男中将、第二艦隊司令長官)に編入。
9月上旬、秋津洲はヒ75船団に同行して九州を出撃、リンガ泊地所在の第一遊撃部隊(通称、栗田艦隊)との合流をめざす。 9月21日、マニラの日本軍は米軍機動部隊艦載機の攻撃をうけ、駆逐艦皐月等が沈没、大損害を受けた。秋津洲は特務艦神威等と共にカラミアン諸島コロン島に退避する。9月24日、ふたたび空襲をうけ給糧艦伊良湖等と共に撃沈された。
現在ではダイビングの沈船スポットになっており、2015年時点でも海底に沈む秋津洲の船体を観察することができる。
ここまでWIKIPEDIAより抜粋。
ブログを書いてみて、初めて艦歴をきちんと読みました。コロン島で今でも観察できるということで場所を調べてみました。下の地図の青丸あたりです。このブログを書いているのは、完成した後なのですが、こういうことを知ったうえで作る方が、より心を込めて作れそうな気がします。では、作ってみましょう。
2、ドアのエッチングを取り付け
説明書通りに組む前にいくつかやっておくことがあります。
艦橋や中央の煙突の基部、艦尾のクレーン基部のドアらしき部分にドアのエッチングを取り付け、窓のモールドに穴を開ける。
反対側から。ここは4箇所。
この部分は写真の2箇所。
艦橋は計7箇所。左舷側に両開きのドア?があるが、適当に見繕っています。ここまで艦橋は仮組みです。
こういう写真を撮ったのは初めてで、エッチングのゲートが残っているのがくっきり見えて恥ずかしい。
あと艦橋のB6、B9、B10の丸い窓部分に0.4mmのドリルで穴開け。
秋津洲(アオシマ)の制作記(2)(艦橋の製作)に続きます。
今回はここまで。