※ 当サイトではアフィリエイト広告を利用しています
初心者講習

艦船模型の華【戦艦】

こんにちは。なみだれです。

今回は、戦艦について紹介していきます。戦艦のかんたんな歴史と第2次世界対戦に参加した日本の戦艦の略歴の後に戦艦の模型製作で注意する点について述べます。

戦艦は第2次世界大戦が始まるまでは、海戦の主力として君臨していました。しかし、飛行機の活躍によって海戦の主役の座を航空母艦に譲ることになりました。

日本の戦艦は、大和型を除き、第2次世界大戦前に大きな改装を行っており、その時に後付でいろいろな設備を追加したため構造が複雑になっています。ですので模型製作最初の1隻には、不向きです。また、大和型は全体の構造はシンプルですが、中央部の機銃が多くあり尻込みされる方も多いかと思います。そこでおすすめなのは、大和型の新造時です。新造時には、中央部の多くの機銃の部分は3連装の副砲が左右に設置されており、機銃の数もとても少なく心が折れることもないでしょう。

それではいってみましょう。

戦艦の歴史

戦艦のルーツは、帆船時代(大航海時代、17世紀頃)の戦列艦です。大砲は、船の側面、舷側に並んでいました。ただ、この時代の大砲は命中率、威力も低く白兵戦で決着がつくことが多かったみたいです。

19世紀になり大砲の威力が大きくなり、動力も蒸気機関が発展してきて、防御のために鋼鉄の装甲を持つ甲鉄艦が生まれました。さらに甲板上に旋回できる砲塔型の大砲を前後(2基)に、両舷に口径の小さい副砲を多数装備する戦艦に進化していきました。

1905年の日本海海戦(日露戦争)の後、イギリスで口径の小さい副砲をなくして、艦の中心軸上に砲塔型の大砲を多数(5基10門)備えたドレッドノートという戦艦を建造しました。砲塔型なので左右両舷側には全ての主砲を向けることができ、それまでの戦艦とは戦闘力が段違いになりました。これからドレッドノートと同等の戦艦=弩級戦艦(英語ではdreadnoughts)という言葉が生まれました。その後、1912年にはイギリスで弩級戦艦以上の大砲を備えたオライオン級戦艦が誕生し、弩級戦艦を超える戦艦として超弩級戦艦(super dreadnoughts)と呼ばれるようになりました。日本でもイギリスから購入した「金剛」や扶桑型、伊勢型が相当します。このようにより大きい大砲を搭載する戦艦を重視する大艦巨砲主義が、第2次世界大戦まで続きます。

1914-1918年には第1次世界大戦が起こりますが、戦艦同士の戦いはユトランド沖海戦のみでした。この戦いでは高速な巡洋戦艦同士の遊撃戦となり、主力の戦艦部隊が全力で交戦することなく大戦の趨勢にはほとんど影響ありませんでした。戦艦の設計(防御)の観点でのみ後世に影響を与えました。

ユトランド沖海戦の戦訓を取り入れた戦艦の建艦競争が第1次世界大戦後に熾烈化しますが、ワシントン海軍軍縮条約が1922年に締結され、戦艦の建艦競争は集結します。それまでに建造された41センチ砲搭載戦艦が、ビッグセブンとして知られています。日本では長門と陸奥が相当します。

第2次大戦が始まったときには、世界最大の46センチ砲を搭載した大和、武蔵を日本は建造しますが、真珠湾攻撃とマレー沖海戦で航空機が主役に移り、戦艦が主役として活躍することはなくなりました。

第2次世界大戦後はアメリカのみが戦艦を保有し、ベトナム戦争や湾岸戦争に出動したが、2006年までに全て除籍している。

より詳細にはwikiを御覧ください。

日本帝国海軍の戦艦

第2次世界大戦で活躍した日本戦艦は、以下の5つの艦型があります。

金剛型

ネームシップの金剛はイギリスで設計、建造された最後の戦艦です。1913年に金剛がイギリスで竣工、1914年に比叡、1915年に榛名、霧島が日本で竣工しました。最初は、巡洋戦艦として計画されたため旧国名ではなく山岳名がつけられています。誕生してすぐの第1次世界大戦時には、速度も早く攻撃力も高かったため金剛型4隻は世界最強をうたわれていました。当時同盟関係にあったイギリスからも貸与要請があり、日本がもし受けていれば、ユトランド沖海戦で大活躍したかもしれません。実際は、アジア太平洋のドイツ東洋艦隊を動きを封じる活動をしました。

第1次世界大戦後は、2回にわたる改装を経て、戦艦として第2次世界大戦に突入します。日本戦艦の中で速度が早いものの法撃力が小さく、最も古かったため空母機動部隊の護衛で活躍することになります。

またガダルカナルの飛行場砲撃や第3次ソロモン海戦にも参加します。

比叡と霧島は第3次ソロモン海戦で沈没、金剛はレイテ沖海戦の後、潜水艦の雷撃で沈没。

榛名のみ呉で停泊中に空襲で着底し、終戦となります。戦後の1946年に解体されました。

より詳細はwikiを参照してください。

扶桑型

扶桑は、日本初の純国産(設計、建造共に)の超弩級戦艦です。扶桑というのは、日本の古い別名です。1915年に扶桑が1917年に山城が竣工しています。日本初の純国産のためか6基12門も35.6センチ砲を搭載しているものの速度、舵の効き、命中率(散布界が広い、散布界:ある一点を狙って射撃した場合に、弾丸がばらまかれる範囲。狭いと命中率が高い。)の点で問題があったようです。この扶桑型も 第1次世界大戦後は、2回にわたる改装を行い、第2次世界大戦に突入します。この改装であの特徴的な艦橋の形になりました。

本格的に戦闘に参加したのは、レイテ沖海戦で扶桑と山城は、スリガオ海峡でアメリカ艦隊の集中攻撃を受け、両艦とも沈没します。

より詳細は wiki を参照してください。

なみだれの作例は以下のリンクで見ることができます。

【扶桑(昭和10年、フジミ)】完成写真

伊勢型

扶桑型の同型艦として計画されましたが、予算の関係と扶桑型の欠点を解消するため再設計されて、建造されました。伊勢は、1917年に竣工、日向は1918年に竣工しています。主砲は扶桑型と同じく 6基12門の35.6センチ(14インチ)砲です。 伊勢型も第1次世界大戦後は、複数回にわたる改装を行い、第2次世界大戦に突入します。 他の戦艦と同様に伊勢型も大戦前半は、活躍することがありませんでした。ミッドウェイ海戦直前に日向の第5砲塔で爆発事故があり、この事故によってミッドウェイ海戦で喪失した4空母の代わりとして伊勢型は、航空戦艦への改造が決まりました。

全面を航空甲板にするのは、工期の点で見送られ、後部の第5、第6砲塔と側面の副砲を撤去して、格納庫と短い飛行甲板が設置されました。改装が完了したのは、レイテ沖海戦前ですでに艦載機もなく、航空機を運用する機会はありませんでした。レイテ沖海戦では、小沢部隊に所属し、対空戦で活躍しました。

その後、シンガポールからの輸送作戦「北号作戦」を成功させた後、両艦とも呉に停泊中、空襲で着底して、終戦を迎えています。

より詳細はwiki を参照してください。

長門型

列強各国が 35.6センチ(14インチ)砲搭載戦艦を建造したことに対して優位に立つためにイギリスは15インチ(38.1センチ)砲、アメリカは16インチ(40.6センチ)砲、日本は41センチ砲の戦艦を建造を計画します。

この日本の計画が戦艦と巡洋戦艦を8隻ずつ揃えるという八八艦隊計画でアメリカは、ダニエルズ・プランと言う大建艦計画です。これらの計画は、財政的にも厳しいものであったためアメリカの提唱でワシントン軍縮会議(1921年)が開催され、新規の建艦の禁止と戦艦の保有比率が決まりました。

この時、保有を認められた 16インチ(40.6センチ)砲クラスの戦艦が、ビッグセブンと呼ばれています。

日本:長門(1920年竣工)、陸奥(1921年竣工)

アメリカ:コロラド、メリーランド、ウェストバージニア

イギリス:ネルソン、ロドニー

この長門は、長く最強の戦艦として君臨したため日本国民の人気の的でした。

この長門、陸奥も第2次世界大戦前に大改装を行い、大戦に突入しています。しかし。大和型に次ぐ主力として温存され、戦闘に参加することは、ありませんでした。そのような中、1943年に陸奥は主砲の事故(原因は不明)で爆沈してしまいます。その後、長門はレイテ沖海戦に参加しますが、大きな戦果、損害もなく帰還しています。海戦後は、横須賀で停泊中に空襲で中破した状態で終戦を迎えます。

長門はアメリカ軍に接収され、ビキニでの原爆実験の標的艦となり2回目の被爆後、4日間浮いていましたが、人知れず沈没しました。

今でもビキニ環礁のダイビングスポットとして長門は見ることができます。ただし、放射線のため直接は触れません。

陸奥も一部が引き上げられ日本各地で主砲身、スクリューや錨などを見たり触ったりすることができます。

より詳細はwiki を参照してください。

大和型

現代の日本で戦艦や軍艦といえば、大和を思い浮かべる人が圧倒的に多いくらい有名な軍艦です。世界最大の主砲46センチ砲を搭載した戦艦です。欧米の数的優位に対抗しようとして建造されました。大和は、開戦直後の1941年、武蔵は1942年に竣工しました。しかし、その時には航空機と空母が主戦力となっており活躍の機会はありませんでした。3番艦の信濃はミッドウェイの敗戦で空母に変更となりました。

最初の戦闘参加はレイテ沖海戦で空襲で武蔵は沈没し、大和はアメリカの護衛空母群に主砲を斉射したのみで帰投している。

大和の最後は、沖縄救援の途中での坊ノ岬沖海戦の空襲による爆沈でした。

より詳細はwiki を参照してください。

各戦艦の性能を表にしてみました。竣工時ではなく開戦時の性能で整理しています。

排水量
[トン]
全長
[m]
主兵装搭載機最高速度
[ノット]
航続距離
[カイリ]
金剛型3220022235.6cm連装砲4基 8門3機3010000
扶桑型3913022535.6cm連装砲6基 12門3機2511800
伊勢型3600021635.6cm連装砲6基 12門3機257870
伊勢型(航空戦艦)3530021935.6cm連装砲4基 8門22機259500
長門型3913022541cm連装砲4基 8門.3機258650
大和型6400026346cm3連装砲3基 9門.7機277200

模型からみた戦艦の特徴

  日本の戦艦は、大和型を除き、第2次世界大戦前に大きな改装を行っており、その時に後付でいろいろな設備を追加したため構造が複雑になっています。

日本戦艦の制作難度が高い部分その1~艦橋~

 日本の戦艦の艦橋の特徴は、中心の柱と数本の支柱に各階層を積み重ねていく構造になっています。この構造をパゴダマストと言います。このため各階層の水平を正確にしてあげないと完成した時に艦橋が歪んでかっこ悪いです。水平を合わせて接着していくのが、厄介です。1つ1つの階層は水平になっているように見えても10以上も重ねていくと歪んでしまったということもあります。

戦艦扶桑1/700の艦橋の写真
扶桑(昭和10年)の艦橋

日本戦艦の制作難度が高い部分その2~煙突周辺の中央部~

煙突周辺に機銃や探照灯を設置する櫓が設置されています。この櫓同士あるいは煙突、艦橋などと複雑に絡まっています。設置する順番やちょっとしたズレで干渉してはまらなかったり、無理してはめ込むとパーツが破損したりします。接着する前に仮組して確認しておくことが重要です。

戦艦榛名1/700の中央部の写真

榛名の中央部

 また、大和型は全体の構造はシンプルですが、中央部の機銃が多くあり尻込みされる方も多いかと思います。

以上の点から、模型製作最初の1隻には、日本の戦艦は避けたほうが良いです。

 しかし、どうしても戦艦を最初に作りたい方もいるでしょう。そこでおすすめなのは、大和型の新造時です。新造時には、中央部の多くの機銃の部分は3連装の副砲が左右に設置されており、機銃の数もとても少なく心が折れることもないでしょう。

大和型は大きいから作った後が大変ということであれば、下の「長門 1927」が次点でおすすめできます。パゴダマストはありますが、煙突周辺はすっきりしていて比較的作りやすいかと思います。

ネットでキットの一覧をまとめました。現在では、入手困難なもの、抜けもあるかもしれません。

WL タミヤWL アオシマWL ハセガワフジミピットロード
大和
武蔵1942
扶桑1938
扶桑1942
扶桑1944
山城1942
山城1944
長門1927
長門1942
長門1944
陸奥1941
陸奥1942
大和
金剛
比叡
榛名
霧島
伊勢
伊勢(航空戦艦)
日向
日向(航空戦艦)
金剛1941
金剛1944
比叡
榛名
霧島
扶桑1935/1938
扶桑1941
扶桑1944
山城1938
山城1944
伊勢
伊勢(航空戦艦)
日向
日向(航空戦艦)
長門1941
長門1944
陸奥1941
大和1941
大和1945
武蔵1942
武蔵1944
大和1941
大和1945
武蔵1942
武蔵1944

今回はここまで。

ABOUT ME
namidare777
なみだれ(七月雨)です。 週末モデラーで艦船模型をメインに作って楽しんでいます。 週末という限られた時間で制作するためにエアブラシを使わずに制作して、10年間で20隻ほど完成させました。 この経験をもとになるべく簡単に制作するポイントをお伝えしていきます。